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エルツ山地鉱業期の要約

豊かな鉱石とそれにもとづく鉱業はこの地にエルツ(鉱石)山地という名称を与え、エルツ山地がザクセンばかりでなくボヘミアにおいても中部ヨーロッパの経済、文化、そして一時は政治的に重要な地方に発展する起動力となりました。鉱業は数世紀にわたりこの地方の景観と文化を際立たせていました。そしてザクセンとボヘミアの経済と文化の発展ばかりでなく、国内、そして国外の他の鉱業地域にも影響を及ぼしました。

これまでエルツ山地の鉱山文化景観の意義に関する12世紀から21世紀にかけての800年以上にわたる歴史を示す6つの鉱業期を証明することができます。

第一次鉱業期: 鉱業の開始 (1168-1450)

当時まだボヘミア山地、ボヘミア森あるいはミリクイディ(暗い森)と呼ばれていたエルツ山地に農民が住み始めたのは12世紀中頃でした。 
オットー・フォン・マイセン辺境伯 (1125-1190)は、1156年から1162年にかけてフライベルク盆地とストリーギス川周辺域の原始林を開拓させ、アルトツェレ修道院のためにツッテンドルフ、ベルテルスドルフ、クリスチャンドルフ等の多くの山地街村を建設させました。 1168年にクリスチャンドルフ近郊で銀が発見されました。この発見により「ベルクゲシュライ」(鉱山の叫び)が急激に広がりました。

それゆえに辺境伯は3つの村を取戻し、自分の土地にある元来は国王の鉱山支配権下にあった特に銀を中心とする地下資源を自分で利用できるよう、収益特権を制定しました。富を約束する銀発見の知らせは特に南ドイツとハルツ地方から多くの採掘者を、そしてこれら採掘者に続き商人と手工業者をその家族と共にエルツ山地に呼び寄せました。人身の自由、様々な賦課と賦役からの免除等、採掘者へ認められた独特な自由制度が、人々の流入を更に助長しました。特にオットー辺境伯が導入した鉱山(鉱業)の自由により、経験豊かな鉱夫がこの地に押し寄せました。誰もが銀鉱石を試掘でき、適切な公課を払えば誰でも採掘権を得ることができました。 しかしながら採取され、精錬された銀は辺境伯の貨幣鋳造所にだけ売ることができました。

この移民の波により農民の山地街村であったクリスチャンドルフは、その後20年で中世中期の町であるフライベルク(自由鉱山)へと発展しました。フライベルクはその後数世紀にわたりエルツ山地において最も大きな面積と最も多くの人口を有する町となりました。1233年に始めて言及されたフライベルクの最も有名な都市法と鉱山法である「イウス・フリベルゲンシス」(ius Fribergensis)は、1307年には文書にまとめられ、エルツ山地にとって非常に重要なものとなりました。 1267年にはフライベルクの銀が「鉱物本」(Buch der Minerale) (アルベルツス・マグヌス・ドミニコ会修道士)において「最も純度の高い、最良の銀」と記載されました。

フライベルクの鉱業はエルツ山地における文書で証明される最古の、そして最も重要な鉱業です。しかしながら既に早い時期にフライベルクの鉱業に一部平行しながら、そして鉱業とは別に、例として12世紀に創立された鉱山町のディッポルディスヴァルデのようにエルツ山地の別の地域でも鉱業が開始されました。その後150年の内に鉱業はエルツ山地の北側で普及しました。 1387年には後のブランド・エルビスドルフ採掘地区において鉱山に始めて名前が付けられました。その後シュネーベルク近郊のノッセンとホーア・フォルストに更なる鉱山地域が生まれました。

銀採掘に続き、遅くとも13世紀と14世紀にエルツ山地の両丘陵側において錫採掘が開始されました。文書に記録されている錫採掘は、1293年のエーレンフリーデルスドルフと1305年のグラウペン(Krupka)での採掘です。エルツ山地の錫は1241年に欧州の重要なケルン金属市場に多大な影響を及ぼしました。当時の最も重要な錫鉱床は、1436年以降のアルテンベルクの「ツヴィッターシュトック」でした。この錫鉱床は数世紀において欧州の最も重要な錫鉱業区画に発展しました。1168年から15世紀中頃まで続くこの第一次鉱業期にこの地方全域において採鉱、そして銅と鉄の産出と加工が始まりました。

第二次鉱業期:町の創立と繁栄期(1450-1620)

15世紀中頃から銀鉱脈の探鉱はフライベルク南西部にあるオーバーエルツ山地の地域へと広がり、エルツ山地における銀生産が新たに発展しました。豊かな銀鉱脈は1470年にシュネーベルクで、1491/92年には今日のアンナベルク・ブーフホルツのシュレッケンベルクで、そして1516年にはエルツ山地のボヘミア側にある聖ヨアヒムスタール (Jáchymov)で発見されました。数多くの新しい銀鉱山施設が短期間の内に設けられ、エルツ山地の鉱山にそれまで例のなかった活気が生まれました。

増大する鉱業事業により、この新たに発見された鉱脈に隣接するエルツ山地全域に新しい、そして一部計画にもとづき築かれた鉱山町が生まれました。ザクセン側ではシュネーベルク、アンナベルク、マリエンベルク、そしてボヘミア側ではプラッテン (Horní Blatná)等の重要な鉱山町がその例です。 数十年の内に鉱業によりエルツ山地のザクセン側で約30、そしてボヘミア側で約20の鉱山町が建設されました。これによりエルツ山地は世界において比類なき数の鉱山町を有する中部ヨーロッパで最も人口密度の高い地方へと発展しました。一連の特権(例、市場権、醸造権、酒類小売権及び畜殺権)を与えられたこれらの新しい鉱山町は、鉱夫とその家族の他に特に手工業者と商人、そして芸術家と学者を呼び寄せました。特にフライベルク、アンナベルク、マリエンベルク、シュネーベルクあるいは聖ヨアヒムスタールのような大きな鉱山町は、 経済ばかりでなく、精神科学、学術及び文化の中心地へと発展し、数多くの華麗な宗教及び世俗的建造物が建設されました。

しかしながらエルツ山地の第二次鉱業期の主な特徴は、新しい鉱山町の創立と急激な発展だけではありませんでした。北部エルツ山地の鉱床の開拓とともに、より深部にある鉱床の探鉱と採掘を可能にする新しい堀削技術が導入されました。これにより商人、選帝侯、公爵による鉱業への投資が、より重要な意義を有するものになりました。

資本流入の増大とともに試掘と新しい豊かな鉱脈の探鉱が強化されました。この資本流入によって始めて、困難な条件においても鉱床をより深く採掘できる新技術としての搬送、排水及び精錬装置の製造と生産的使用が可能になりました。鉱夫の現場作業についてはその過去数百年においてほとんど変化が見られなかった一方で、特に搬送と水利技術は1470年以降、重要な進歩を遂げました。

エルツ山地で採掘した銀はフライベルク、アンナベルク、ブーフホルツ、シュネーベルク、聖ヨハヒムスタール (Jáchymov)、そして後にザクセン側のドレスデンにある造幣所において貨幣に鋳造されました。特に1519/20年以降、聖ヨハヒムスタール (Jáchymov)のシュリック伯爵により鋳造された「ヨハヒムスターラー」は欧州ばかりでなく、世界の貨幣にとって重要なものになりました。例としてザクセンでは1471年以降のマイセンのアルプレヒト宮殿、1568年以降のアウグスツスブルク狩猟用別邸のようにエルツ山地の鉱業による利潤により、多くの代表的な建造物が建設されたのは、何も鉱山町だけではありませんでした。

16世紀中頃にエルツ山地の鉱業は技術的及び経済的に世界最高峰となる位置を占め、この地方は中部ヨーロッパ鉱業の中心地となりました。16世紀の集中的な鉱業により、当時「ボヘミアの森」あるいは「ボヘミア山地」と呼ばれていた地域が「エルツ山地」という名称に変わりました。この名称は1527年に始めて鉱山施設の書類に記載されました。

1530年代に最高潮を迎えた銀鉱石の採掘の他に、エルツ山地では15/16世紀に錫、銅、鉄、コバルトのような他の鉱石も採取され、加工されました。エルツ山地の第二次鉱業期の初期は、特にザクセン・ボヘミア両側の東部エルツ山地での錫鉱石採取の増加と結びついています。グラウペン (Krupka)で は1464年にボヘミア側のエルツ山地東部で始めて鉱業法が制定されました。1514年から1518年にかけて特にグラウペン(Krupka)に適合させたアルテンベルク、ガイシング、ミュッケンベルク及びその他錫鉱山用の共同鉱業法が整備されました。

16世紀には錫採掘の中心地は、既に採掘し尽した小さな鉱床にもとづき、 特に新鉱山地区での採掘が急激に発展したヘングステルエルベン (Hřebečná)、 プラッテン (Horní Blatná)、ゴッテスガープ (Boží Dar)及びその他鉱山地区のあるエルツ山地の西側に移りました。エルツ山地のボヘミア側は、エルツ山地南部のカイザーヴァルトにあるシュラッゲンヴァルトとともに、欧州大陸における錫の最大生産地に発展しました。ボヘミアの錫がイギリス鉱山からの錫供給を押し退けた時代もありました。最大生産量に達したのは1550年代から1570年代にかけての時代です、その後採掘量は減りました。

第三次鉱業期: 戦争と再建 (1620-1750)

30年戦争はエルツ山地の経済と社会に悲惨な影響を及ぼしました。特にエルツ山地の鉱山町が戦争の被害を受けました。略奪による甚大なる被害を特に強調することができます。多くの町が戦争により焦土化し (例、グラウペン、クッパーベルク)、あるいは多大な戦災を被りました (フライベルク、ヨハヒムスタール)。数多くの鉱山が破壊され、あるいは不十分な修復により落盤しました。30年戦争による鉱業と精錬設備の破壊、そして数多くの鉱山町の包囲と略奪により、鉱業はエルツ山地全域でほぼその機能を停止しました。

特に16世紀の20年代から主に新教徒が住んでいたボヘミアのエルツ山地は、1620年以降ハプスブルク家が進めた強制的な再カトリック化により、甚大なる打撃を受けました。この最終帰結としてエルツ山地の政治、経済及び文化がカトリックのボヘミア側と新教派のザクセン側に分裂し、ボヘミアとザクセンの発展は遅くとも1650年代から別々の道を歩むことになりました。 その後、間もなくして開始された国家と経済の再建はボヘミアばかりでなく、ザクセンにおいても絶対主義のもとに進められました。

鉱業はボヘミアのエルツ山地のわずかな地域においてのみ、戦中、戦後と維持されました。ヘングステルエルベンの錫鉱山では、16世紀に比較すると規模が小さくななったとは言え、採掘が継続されました。これに反し隣接するプラッテンの錫鉱石の抗内採掘は最小限の規模に縮小され、鉱山は主に砂鉱床作業による錫石採掘によってのみ維持されていました。30年戦争はボヘミアの全エルツ山地を長期間にわたる深刻な危機に陥れ、この危機はその後間もなく開始された激しい反宗教改革により一段と深まりました。その反動として多くの新教派の家族がザクセンに逃れ、これによりプラッテンとそれに隣接する鉱山町から1654年始めにザクセン選帝侯の許可を得て直接ボヘミアとの国境において、当時最も新しいエルツ山地の鉱山町であったヨハンゲオルゲンシュタットが生まれました。

ザクセンでは30年戦争後に鉱業が一般的に衰退したことにより、エルツ山地の鉱夫とその家族は何度となく仕事を変えなければなりませんでした。これによりザクセンのエルツ山地ではオルベルンハウ・ザイフェン地域の玩具製造、ツェーブリッツの蛇紋石ろくろ細工、あるいはアンナベルクとシュネーベルク地域での縁飾りとボビンレース製造のような当地の原料と既存労働力を使用する鉱山と多かれ少なかれ関係する新しい生業が生まれました。そして鉱夫の専門能力と知識は、エルツ山地における出版とマヌファクチャー製造の中心地を早期に形成する基盤となりました。この発展は専門能力と知識を有し、ザクセンのエルツ山地の生業構造の改善に少なからず貢献したボヘミアの被追放者の多大な流入による恩恵も受けました。例としてヨハンゲオルゲンシュタット(1654年)あるいは「ツヴィッターシュトック・ツー・アルテンベルク」組合(1663年)の創立のように、ザクセン側の鉱業を再活性化することになった直接的なインパルスもこれに関係しています。

1625年から1635年の戦争によるコバルト鉱石の販売危機により、1635年からザクセン側のエルツ山地で青色色素製造が著しく増加しました。1650年までにニーダープァンネンシュピール、ユーゲル、オーバーシュレーマ及びゼーマに、そしてチョルラウ(シンドラー工場)近郊において青色色素工場が建設されました。これらの工場は1694年までに青色色素コンソーシアムに併合され、これにより青色色素製造は世界の独占的地位を占めることになりました。この独占は19世紀になって始めて、色素ウルトラマリン合成製法の開発(1828年)により失われました。チョルラウ近郊のシンドラー工場は、1855年以降は人工ウルトラマリンを生産していますが、エルツ山地のこの青色色素製造の偉大な伝統を今日にいたるまで継承しています。

30年戦争によるエルツ山地の鉱業危機は、ザクセンにおいても17世紀末から18世紀初期にかけての絶対主義のもと徐々に克服されました。 1702年にはフライベルクの高等鉱業局にザクセン鉱業官吏の実務と学術教育振興のための寄付金金庫が設置され、1765年には最終的にフライベルク鉱業アカデミーが創立されました。

17世紀から18世紀への移行期に新鉱山で採掘が開始されたのはフライベルク採掘地区だけではありませんでした。1698 年にはアウエ近郊でカオリン鉱脈が開拓され、これによりヨハン・ベットガー(1682-1719)等による18世紀初期のザクセンにおける欧州硬磁器開発のための原料の基盤が築かれました。ザクセンのエルツ山地からの銀と磁器製造用原料として使用されるカオリンは、ドレスデンにおけるアウグスト2世選帝侯(1660-1733)の豪奢な生活、多くの建造物及び芸術コレクションの費用を賄うために少なからずの貢献を果たしました。

第4次鉱業期: 産業化の開始(1750-1850)

18世紀前半の7年戦争の戦乱によるザクセン経済の衰退後、エルツ山地の鉱業生産は1770年頃から再び高揚期を迎えることになりました。この第4次高揚期において鉱業は低品質鉱石の採掘により16世紀の産出量に達することはありませんでしたが、1765年のフライベルクにおける鉱業アカデミーの創立により、その品質に関して基本的な新しい知識と技術のインパルスが与えられ、これにより産業時代への移行が可能になりました。

鉱業と精錬はその後数10年間にわたり、その全体において再構成されました。まず最初に鉱山技術が近代化されました。フライベルクの鉱業アカデミーの創立は、鉱石の採掘、選鉱及び精錬を確実な学術ベースに据えることに多大に貢献しました。

蒼鉛、コバルト、ニッケル、亜鉛あるいはウランのような以前あまり使用されなかった鉱石がこの時代に重要なものになりました。エルツ山地の鉱業はザクセンにとっては、従来のように過少評価することのできない経済要因でした。ザクセンの鉱石採掘は19世紀には量的に国外と国内においてその重要性が低下しましたが、品質においては今日にいたるまで数多くの技術革新と学術進歩により際立っています。

技術と学術を基盤とする新しい採掘と精錬方法が導入されました。改良された採掘と水利技術の利用により、より深部での採掘が可能になり、これにより既存の鉱床を更に使用できるようになりました。技術の近代化とフライベルク北採掘地区でのエルツ運河の建設(1789年使用開始)あるいはフライベルク採掘地区排水用のロスシェーンベルク横坑の建設(1844年から1877年)のような国が進めたインフラ整備により、エルツ鉱業の衰退を防ぐための試みが進められました。ザクセン国が多大に関与したことにより、ほとんど収益性のなかったエルツ山地の鉱山は、その存在をザクセン国の多大な資金援助に負うようになりました。

西エルツ山地のアントン製錬所のような収益性のない拠点を放棄し、フライベルク近郊のムルデンヒュッテンとハルスブリュッケの両拠点だけに集中させたエルツ山地の精錬も同様でした。鉱業アカデミーでは国立銀製錬所の近代化の際に応用することのできた学術化学研究にもとづく新溶鉱工法が開発されました。

アウエでは1823年にニッケル、錫、亜鉛及び銅からのアルゲンタン(洋銀)の生産に成功し、その製造のために1829年にアウエルハンマーにおいて最初の工場が建設されました。アウエでは保護商標アルパカにおいて多くの卓上食器と装飾物が製造されました。そして既にエルツ山地に存在していた伝統的な食器製造が品質と量を新たなものにしながら継承されました。

ザクセン鉱業の新しい部門として19世紀前半にドレスデン近郊のプラウエン低地、ツヴィッカウ及びルガウ/エルスニッツ採掘地区のエルツ山地周辺域で民間経済にもとづく当時最新の技術水準を誇った石炭採掘の開発がはじまりました。この石炭採掘を急発展するザクセン産業化の重要な基盤にしようとしたのです。特に機械製造を中心とする ザクセン産業の一般的開発は、鉱業に使用された技術に直接的な影響を及ぼし、その一方では鉱業とそこで開発された技術の恩恵を直接受けることになりました。リヒャルド・ハルトマン(1809-1878 )によりケムニッツで製造された最初の蒸気機関車の名称が「グリュック・アウフ」であり、またフライベルクの芸術マイスターであるブレンデルが設計した坑内設備の蒸気搬送機アルテ・エリザベスがフライベルクでケムニッツの機械製造会社パッフにより製造されたことは偶然ではありませんでした。

第5次鉱業期: 鉱業の自由化(1850-1945)

これに続くザクセンのエルツ山地鉱業の時代の特徴は、それまで長年にわたり顕著になってきた特に銀鉱業の衰退を止める最後の試みがなされたことです。1871年のドイツ帝国の創立とともに金本位制が導入され、これにより銀価格が更に下がりました。ザクセン国では鉱業の管理と行政の抜本的改革及び構造と技術の近代化によりこの展開に対抗するとともに、この衰退を少なくとも遅らせようと試みました。

1870年にはフライベルク採掘地区だけで以前として5000人の鉱夫が従事していました。しかしながらフライベルク採掘地区全域の排水用に使用されたザクセンでは最大の、そして最も重要なロツシェーンベルク横坑が1877年に完成したにもかかわらず、この衰退を止めることはできませんでした。あらゆる対策を講じたにもかかわらずエルツ山地の鉱業は経営赤字が続きました。それゆえに1903年にフライベルクのエルツ鉱山を閉鎖するという基本決定が下され、1913年までに計画通りに大多数の抗が閉鎖されました。

これに反して当時のザクセン産業化の重要な基盤となる石炭採掘が、3つの大きなザクセン鉱床で発展しました。エルツ山地北端部には例として1869/74年に立抗を掘り下げ、1920年代始めから大々的に近代化され、生産能力が著しく向上したカイザリン・アウグスタ立抗を有するルガウ・エルスニッツ石炭採掘地区がありました。

ザクセンのエルツ山地の鉱業は、1930年代のナチス政権による自給自足経済への試みとドイツの再軍備化により再活性化されました。この目的のために1937年にフライベルク及びその他採掘地区で非鉄重金属採掘の再活性化に貢献した「ザクセン鉱業株式会社」が創立されました。これによりエルツ山地では鋼鉄精製のためのタングステン、ニッケル、あるいはマンガンという戦略上重要な様々な地下資源の採掘を目的とする鉱山が開かれました。エルツ山地の鉱石及び石炭採掘は、第二次世界大戦の終了まで戦略上、非常に重要でした。

エルツ山地ボヘミア側の第5次鉱業期の始まりは、多くの重要な出来事により決定することができます。1850年に国がヨハヒムスタール町からアイニッヒカイト(Svornost)鉱山施設を買収し、この鉱山施設のほぼ単独の鉱業会社となりました。これに続く行政管理の再組織化とこの施設の鉱山技術設備の変更により、更なる銀鉱石採掘ばかりでなく、始めて大々的に進められたウラン採掘の基盤も築かれました。

ヨハヒムスタール鉱業の更なる発展を決定づけたものは、特に19世紀後半と現存しませんが1852年に直接、町内に新築された工場で製造されウラン色素の大量生産に役立ったウランでした。ヨハヒムスタール鉱山施設は、フランスの物理学者であるH.ベクレルが1896年に放射性物質から放出される放射線を証明し、M.スクロドウスカ・キューリーが1898年にヨハヒムスタールのウラン色素工場の廃棄物内で新しい化学元素であるポロニウムとラジウムを分離したことにより更に重要なものになりました。ヨハヒムスタール鉱山施設は、20世紀始めには世界で唯一のウラン鉱山でした。放射能鉱水の療養効果の発見後、1906年にヨハヒムスタールにおいて世界で始めてのラジウムとラドン温泉地が設けられました。

ボヘミア地方の経済高揚、そしてこれによるエルツ山地の経済発展も、1914年から1918年にかけての第一次世界大戦により多大な被害を受けました。戦争初期の産業の軍事化により、グラウペンとツインヴァルトのタングステン採掘、そしてプラッテンでの鉄鉱石とマンガン鉱石の採掘が暫定的に再活性化しましたが、経済はその全体において戦争による多大な損失を被りました。

1918年にチェコスロバキアが誕生した後、エルツ山地のいくつかの鉱山を再生させようとの試みがありましたが、ヨアヒムスタールのウラン鉱石採掘は例外として、鉱石採掘の機能は事実上、停止しました。

第6次鉱業期: 社会主義時代の鉱業 (1945-1990)

第二次世界大戦後、ボヘミアばかりでなくザクセンのエルツ山地におけるウラン産出は、ソ連の原子力兵器開発との関係において最も重要な戦略的意義を持つようになりました。それゆえに世界大戦直後にザクセンのエルツ山地でもウラン鉱石の探鉱が集中的に進められました。エルツ山地の鉱業において比較的、戦災を免れ破壊されることのなかった立抗と鉱山設備の大部分は1945年後、在独ソ連軍政府 (SMAD)の管理下に置かれ、このソ連軍政府はウラン鉱脈の探鉱を大々的に進めました。

非鉄重金属株式公社「ヴィスムート」(ヴィスムート株式会社)という偽称のもと、豊かなウラン鉱床の採掘が旧採掘地区で、またこの採掘地区から離れたエルツ山地西部の新しい深い立抗において開始されました。ザクセンのエルツ山地は1946年から開始されたウラン鉱石の採掘により独特な鉱業時代を迎えました。人口が密集するエルツ山地の真ん中で進められた何十万という鉱夫が従事したこの鉱業は、世界でも比類のないものでした。この鉱山操業により、この地方が持続的に変わりました。3度目の歴史として何千という多くの人間が、新生活を求めてエルツ山地に押し寄せました。最初の数年間は政治犯と囚人が強制的にウラン採掘に従事させられましたが、ヴィスムートによる食料と消費財のより良い配給、高賃金あるいはより良い医療手当という優遇措置により、多数の志願者もその当初からザクセンのエルツ山地に押し寄せました。ヴィスムートの監視下においてエルツ山地に独自の党と国家保安組織及び独自の交通と配給設備を備えた新しいドイツ民主共和国の「国家の中の国家」が発展しました。

1946年のウラン生産量はわずか 15.7tでしたが、生産量はその1年後には145t に達しました  1949年8月29日にエルツ山地で採掘されたウラン鉱石により始めて製造が可能となったソ連初の原子力爆弾が点火されました。ヴィスムート株式会社はソ連勢力範囲内における最も重要なウラン製造会社となりました。ウラン採掘の中心地は当初は、ヨハンゲオルゲンシュタット、シュネーベルク、そしてシェルマの歴史的な鉱業地帯でした。ヨハンゲオルゲンシュタットは、ドイツ側エルツ山地における最も重要なウラン採掘場の一つとなりました。非常に集中的な採掘により、多くの大鉱床が短期間内に採掘し尽されました。他のウラン鉱脈が開拓されました。チューリンゲンではロンネブルク地域において、ヴィスムートの地質学者が露天採掘も可能であったウラン鉱脈を発見しました。このように鉱業地帯は徐々にエルツ山地からこれに隣接するチューリンゲンに移行しました。ヴィスムート株式会社はその後1954年に純粋なソ連の会社からソ連とドイツの株式会社(SDAG)へと変わりました。 1953年まで SAG ヴィスムートの収益は、戦争賠償金としてソ連へ支払われました。当時、約10,000tのウラン鉱石が採掘されました。

ドイツ民主共和国が崩壊し、東ドイツがドイツ連邦共和国へ編入されたことにより、SDAGヴィスムートの鉱業操業は1990年以降、中止されました。大量のウラン鉱石はもはや必要ではなくなり、また一方ではザクセンのウラン採掘では自由市場での競争に耐え抜く収益性がなくなりました。東西ドイツの統一後にドイツ連邦の公社となったヴィスムート有限会社も、それまで例のなかったウラン鉱石採掘とウラン鉱石精錬設備の老朽物の整理に追われました。1990年までウランが採掘された場所はシュレーマとペーラだけでした。ヴィスムート株式会社による東ドイツのウラン鉱石の採掘量は、合計231,000tでした。 その大部分はエルツ山地の鉱床からのものでした。

第二次世界大戦後の1945/46 年のチェコスロバキアの創立とともに、ボヘミアのエルツ山地からのドイツ人の追放、強制退去及び立ち退きが、そしてチェコ人の同地方への移住が始まりました。既に終戦直後に全鉱山が国有化され、当該産業部門では民営会社は禁止されました。1950年代から1960年代にかけてボヘミアのエルツ山地では、当時知られていたほぼすべての鉱床が新たに調査され、その内のいくつかの鉱床では実際に採掘が再開されました。

戦後の鉱業歴史において非常に特殊な役割を果たしたのものは、ウラン鉱石の採掘でした。1945年5月にチェコ政府がヨアヒムスタール鉱山を買い取りました。そしてこの鉱山は1945年9月11日にソ連赤軍の兵士により占拠されました。この占拠を準備し遂行したのは、ドイツのアンナベルクに駐屯していたソ連赤軍でした。ヨハヒムスタールの他にアンナベルクとヨハンゲオルゲンシュタットの更なる周辺域も占拠されました。

大掛かりな求人広告によりチェコスロバキア全国から鉱夫が、そして新たな移民者も徐々にヨハヒムスタ-ルへやって来ました。1947年末にこの地で働いていた人間は、約3,750人でした。 Jáchymover 委員会が望んだ採掘量の何倍もの増加は、この労働力の増加によっても保証することができませんでした。すでに1948年2月以前にソ連からこの地に移送されたドイツ人捕虜がJáchymovské doly 人民所有会社の「業務」に従事しました (合計12,000 人、1949年始めにこれらの捕虜は徐々にドイツへ「追放」されました)。鉱山に捕虜収容所が設けられ、その内部政策、決定事項及びその他組織構造はソ連保安局の職員により管理されました。

共産党政権誕生後の1948年2月からヨアヒムスタール鉱山において、ボヘミア鉱業史において例を見ない鉱石採掘の高揚が生じました。ヨアヒムスタールの労働力はウラン抗に直接隣接し設けられた強制収容所と刑務所により確保されました。死の赤塔がこの鉱業時代の証人です。

この採掘地区の全歴史において鉱夫により8,000t以上に達するウランが採掘されました。その内7,200tのウランが Jáchymovské doly人民所有会社によるものです。第二次世界大戦直後にはアベルタムも含むヨアヒムスタール採掘地区ばかりでなく、例としてゴッテスガープ、クップァーベルク、プレスニッツ、フリューブス及びブライシュタットの他の採掘地区でも放射物原料を探していましたが、そう大きな成果を生み出すことはありませんでした。

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